文4年(1664)、肥後国八代(熊本県八代市)出身の浪人 渡辺五郎右衛門(ごろうえもん)が、速見郡鶴見(別府市鶴見)に来て明礬製造を思い立った。彼は立石村(別府市南立石)と鶴見村の小倉(同市小倉)で明礬製造を試みたが、失敗に終わった。その後、五郎右衛門は長崎の薬種問屋に奉公し、ここで中国人より明礬の製造の秘伝を聞くことができた。
早速、彼は鶴見村に来て再度、明礬製造を照湯で試みたところ、見事成功することができた。そこで鍋山、瘡湯山、野田村、甑山(いずれも別府市内)で大々的に製造を開始した。これが日本での明礬製造の始まりである。
ところが、中国から大量の明礬(唐明礬)が輸入されるようになり、五郎右衛門の明礬山は経営難となって製造を中止しなければならなくなった。こうして明礬山は、荒れ山となってしまったのである。
その後、享保10年(1725)に天領の小浦村(日出町平道)の庄屋・脇儀助(脇蘭室の祖父)現『明礬 湯の里』社長の祖先が森藩領の鶴見村で、同藩に運上金(事業税)を払って明礬製造を再開。さらに同12年には、野田村明礬山でも大々的に製造を行った。
しかし、五郎右衛門の時と同様、唐明礬大量輸入のため、たちまち経営困難に陥ったのである。そこで儀助は、享保14年(1729)に大阪商人の近江屋らと共に唐明礬の輸入禁止の願いを幕府に訴え、さらに、幕府の和楽吟味方の丹波正伯に、儀助が製造した明礬の品質検査を願い出た。この品質検査により、儀助が製造した明礬は唐明礬より高級であることが証明されたのだった。
これにより享保15年(1730)、幕府は唐明礬の輸入を禁止し、日本国内で生産される和明礬のみを使用することになった。
助らは明礬を幕府の専売品として、江戸、京都、大阪、堺に明礬会所を設けて取引するように願い出た。結果、享保19年(1734)に明礬会所の設置が幕府から認められた。こうして儀助らは日本国内の明礬の製造、販売権を独占することとなり、年間の収益は約一千両に及んだという。
当時、明礬は薬、火薬、染め物、鍛冶溶接、絵画など多方面に使用され、重宝されていた。現在では明礬の原料となっていた入浴剤としての「湯の花」の生産が盛んになり、別府を代表する特産品になった。また、平成18年3月には湯の花の製造方法が、国の「重要無形民俗文化財」の指定を、平成24年には湯の花小屋のある明礬温泉の風景が国の「重要文化的景観」の指定を受け、『明礬 湯の里』には国内外から多くの観光客が湯の花の製造地を訪れている。
別府市明礬温泉という地名は、かつて全国に名を馳せた野田・鶴見明礬山の名残をとどめているものである。